行政書士田中建太郎が生まれるまで②
さて小学校3年生から千葉県は市原市へ引っ越しましたワタクシ田中建太郎でございますが、同居を始めた祖父母はなかなかに厳しい人たちでした。明治の考え方というか。夫唱婦随。家長の言葉は絶対みたいな。
ところが私は、それまで8年間、両親弟妹の家族5人でしか暮らしたことないんで、祖父母との付き合い方とかわからないんですよ。
だから自分からニコニコ近づいていかないので、あまり可愛がられた記憶もないです。昔の人の愛情表現はわかりにくいですからね。
しかし、こっちは小学生男子ですから、元気が有り余っており、ドタバタ二階で走り回ってはうるさい!大声で兄弟喧嘩してはうるさい!と叱られますし、それも私でなく母が𠮟られるんですね。
嫁姑問題なんて言葉は知りませんでしたが、舅に叱られ、姑に叱られ、私に涙しながら愚痴をこぼす母を見て心を痛めておりました。
何も知らない子供にとって母親はとても大切ですからね。
母をいじめる祖父母は嫌っておりました。とはいえ、特段いじめてたわけではないんでしょうけどね。
家庭環境が子供に及ぼす影響はなかなかに大きくって、反抗期も相まって小学校5年からは相当ひねくれものに仕上がってまいりました。
先生のいうことも親のいうことも反発。
反権威。
偉そうな物言いされると絶対に従わない。
当時は1990年代前半。
日教組も左翼的マスコミの力もまだまだ強くて、子供に反権力、反権威といった価値観が優れていると吹き込んでおりましたため、私は
祖父母への反発も相まって反権威、反権力に染まっていくのでした。
リーゼントにボンタンとかわかりやすいグレ方をしたわけではありませんが、とにかく今振り返ると嫌な奴だったことは間違いありません(笑)
とはいえ自分が納得のいかないことは、決してやりたくない頑固で強情な性質はこのころには出来上がってきたんでしょう。
三つ子の魂百までという言葉は真理ですね。
明日に続く。