行政書士田中建太郎が生まれるまで①
ということで、昨日から始まりました100日集中連載してみる企画2日目。
行政書士田中建太郎事務所を運営する田中建太郎ってどんなやつ?という記事を書いていこうと思います。
とはいえ事務所紹介にもざっくり書いてあるんですが、こちらはあくまでざっくり書いてあるだけなんでこちらはもう少し突っ込んだところを書いていこうかと思います。
ただあくまで私から見た主観的な思い出話なんで、事実と違うことがあるかもしれません。そこらへんはご容赦くださいませ。
私は、東京都目黒区目黒本町にございました都営住宅にて生まれ育ちました。(厳密には長男なんで母が里帰り出産してたので出生した病院は長野県青木村だそうです)
昭和54年ごろの都営住宅っていうのは古い人しかわからないでしょうけど昭和の文化住宅っていうやつでしょうか。間取りが田の字の形なんですね。
田という字は4つの口に分けられますが
左上の口が、玄関とトイレ
右上の口が4畳半
左下の口がお台所
右下に六畳間
という造りです。
形としてはちょうどこんな感じが近い間取りでしたね。
お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、そうです。この家、お風呂がない。
昭和50年代は内風呂がない家庭も多くて、私は生まれてから数年間は銭湯に通っていた記憶があります。
内風呂ができたのは3~4歳くらいだったんじゃないかな。
いまは目黒といえばハイソなセレブが住む町みたいな山の手のイメージですが当時は傾いた長屋みたいのもたくさんありましたね。夕方になると豆腐屋さんがパープーってラッパ鳴らしながら来てましたしのどかな時代でした。
その後弟妹が生まれ5人家族で小学校2年生の3学期が終わるまで目黒の都営住宅に住んでいましたが小学校3年生から、千葉県は市原へ引っ越します。
といいますのも父方の祖父は警視庁に勤めていた警察官だったんですが、定年後隠居場所として市原に土地を買い家を建てました。そこへ、長男である私の父が同居するために、二世帯住宅に建て替えて一家5人で引っ越していったんですね。
当時は1987年。1985年のプラザ合意からバブル経済が始まり土地の値段も上がっていって景気も上向いている時代なんでしょうか。結婚して一家を構え、車を月賦で可って、ついには家を建てて一国一城の主になる、というのがサラリーマンの王道だったそうですからその王道を父は歩んだんでしょうね。
ということで、一家5人の生活から祖父母と同居の3世代7人の暮らしが始まります。
明日に続く。